原始時代〜昭和まで 青山の歴史


 入り江に沿った青山の台地には、石器時代から人が暮らしていた。青山墓地からは、縄文式土器が

見つかっており、赤坂氷川神社境内内に一大古墳が残っている。


大化の改新の際に、21郡による武蔵国が建設され、旧市内半分を占めた葦原郡の桜田郷に属した。

推定では、源頼朝の挙兵より数十年前に東京の大半は豪族江戸氏が拠有「江戸」を称号として

約200年間江戸の広大な土地を所有。


江戸城が築かれる頃には、江戸氏の勢力が衰え鎌倉時代から、足利義満の時代まで青山の地に渋谷

長者が住み、「長者が丸」の地名が起こったという。家康が、青山忠成に青山の地を与えたので

青山」の地名が起こったといわれているが、定かではない。


通称「青山通り」国道246号線は、昔から大山厚木街道として賑わった。江戸時代の初め、

玉川上水もなく、江戸中が旱魃や水不足に悩まされていた時代は、作物が取れるか取れないか、

豊凶のいずれかを賭けた必死の農民が、相模国大山の阿夫利神社に雨乞いの願いをこめて通って

いった。やがて、上水が整ってくると雨乞いから物見遊山の旅へと移り変わっていった。

江戸時代には武家の町であったが、維新後、桑畑になり一時期荒廃した。


明治11年11月 

郡区町村編制法の発布に伴い東京市内を15区に区画、赤坂区が誕生。

明治19年    

練兵場が日比谷(現在の日比谷公園)より現在の神宮外苑に移設される。

明治22年5月 

東京市制施行により「東京市赤坂区青山」となる。

明治24年 

陸軍大学校(現在青山中学校)近衛歩兵第四連隊、第一師団司令部が置かれ(北青山南青山一丁目付近)

麻布と並んで軍隊の街になった。周辺には華族、軍人、官吏の屋敷が建ちはじめた。

明治33年 

東京府立師範学校(現東京学芸大学)が小石川より移転(善光寺から青山児童館あたりまでの広域)

青山師範学校として開校。故桜井校長先生も学ばれた。昭和11年学芸大学(目黒区)に移転。

明治37年 

東京市街鉄道開通(三宅坂〜青山四丁目間)

大正7年 

女子学習院青山練兵場跡地に新校舎竣工(永田町御領地より移転)昭和20年の空襲に依り豊島区へ移転。

大正14年 

青山会館創設 徳富蘇峰、富徳、猪一郎の寄付により「皇室中心の思想のもと皇国民としての

徳性と知識の向上、社会教化を目的に創設された。大講堂は2000人収容可。

(現南青山5丁目、青山第一マンション)

大正15年 

練兵場、代々木に移転。跡地に神宮外苑造園(明治天皇を称え、その業績を後世に伝えるため)

昭和20年 

大空襲敗戦後。神宮外苑は進駐軍に接収され将兵のスポーツセンター「メイジパ−ク」となり界隈は、

アメリカ人が闊歩する街になる。

昭和22年3月15日 

旧赤坂区、旧麻布区、旧芝区の3区が合併された。それに先立つ2月26日に区名を港区

することが決定。

名前の由来:国の発展は、貿易の振興にあり、その素材といえる東京湾を包合していることから。

昭和26年 

接収解除 日本最初のボーリング場「東京ボーリングセンター」開設。

昭和28年 

アメリカ人利用客の提案に依り「紀ノ国屋」が日本最初のセルフサービス方式の

スーパーマーケットに改築。外人や、高所得者層を呼び寄せ「センスの良い街」というイメージを

生む発端になる。

昭和35年 

青山一丁目駅近くに「第一生命住宅 青山アパート」建設。約50坪の3LDKは話題になり、

高級分譲アパートの走りとなる。

昭和37年 

地元の呼び名であった「青山通り」が名称として定められ標識等に記されるようになる。

昭和41年10月1日 

住居表示が旧町名から現表示に変更(例:青山南町→南青山)

昭和42年9月 

都電廃止。片側四車線の道路として今日に至る。


参考文献:「歓歴」青南小33回生卒業生還暦記念誌 1988年

     「都電春秋」 野尻泰彦著 1969年 伸光社

      港区資料より