都電 越境生の足としても大活躍

東京の街を網の目のように走っていた「チンチン電車」またの名を東京市電(都電)は、自動車中心の交通事情になる前は東京市民の気軽な足として隆盛を誇った。市営化以前は「東京電車鉄道」として明治36年8月22日品川八ツ山〜新橋間開通。明治37年12月〜「東京電気鉄道」平行して「東京市街鉄道」明治36年〜39年。明治39年からは「東京鉄道」

創業した明治から、廃止になった昭和47年までの間で最盛期の昭和18年には1日約193万人が利用、系統も41を数えた。


青山通りを通っていたのは10系統

(昭和43年9月29日まで )

渋谷駅前ー青山車庫ー青山6丁目(紀伊国屋前)ー明治神宮(表参道交差点)ー青山5丁目

ー青山4丁目ー青山3丁目ー青山1丁目ー赤坂表町ー豊川稲荷ー赤坂見附ー平河町2丁目ー三宅坂

ー半蔵門ー三番町ー九段上ー九段下ー専修大学前ー神保町ー駿河台下ー小川町ー淡路町ー須田町

現在の半蔵門線とほぼ同じルート。

戦前は、この市電に乗ると3回おじぎをしなければいけなかった。

1、表参道の交差点を通過するとき。車掌さんが「明治神宮おん前です」

  乗客は立ち上がって神宮の方へ向かって礼をする。

2、三宅坂で左折し皇居のお濠に沿う地点。「宮城おん前です」

3、九段坂上。「靖国神社おん前です」

青山6丁目停留所(紀ノ国屋の真ん前)

1963年の末頃

紀ノ国屋インターナショナル提供


骨董通りを通っていたのは系統

(昭和42年12月10日まで)

渋谷駅前ー青山車庫前ー青山6丁目ー青山南町ー高樹町ー霞町ー材木町ー六本木ー

今井町ー福吉町ー溜池ー虎の門ー田村町1丁目ー新橋

骨董通りとのT字路を、

紀ノ国屋、花茂からみたところ。

昭和30年頃。ガソリンスタンドがあるところが、

現在のマッククスマ−ラのビル。

写真提供:紀ノ国屋インターナショナル


廃止の前後

都電の利用客の半分は定期券利用の勤労者、学生であった。

良い所は、網の目のように走っているため、たいていの所に行ける事。料金が安い事。

欠点は、制限速度35キロ(最大50キロは出せるのに)平均速度12.88キロのノロノロ運転である。

自家用車が急速に普及し、都電は目の敵にされる。また、地下鉄工事も始まり、益々道路が混雑した。

騒音公害および財政問題(膨らむ赤字)の解消など、継続には問題が多すぎた。


おまけ

夏目漱石「坊ちゃん」の主人公は、物理学校卒業してすぐに40円の月給で松山中学に奉職した。東京に戻った理由はお話を

思い出していただくとして、その後、街鉄の技手になり月給25円、家賃6円で清と暮らした。(街鉄:市街鉄道、後の都電)

街鉄の存在期間は明治36年〜39年3月だが、坊ちゃんが松山中学生と師範学校生とのけんかにまきこまれたのは、

日露戦争(明治37年〜38年)の祝勝会の夜なので、坊ちゃんの帰京就職は明治38年10月以降から翌3月までの半年間であったということがわかる。

 ※当時において技手、運転手は新しい分野の技術職であり高給だった。

 ※漱石自身の松山滞在は明治28年4月からの1年間。月給は80円で校長より20円高かったそうだ。


参考文献:都電往来 東京都交通局

     東京人 路面電車が走る街 2000年7月号

     漱石のレシピ 藤森清著 講談社+α新書 2003年2月

     「坊ちゃん」夏目漱石