安岡 章太郎(1920〜 )


1953年(昭和28年)「陰気な愉しみ」「悪い仲間」で芥川賞受賞

伝統的私小説の手法を利用し、自己を劣等生に擬す作風で知られる。

「第三の新人」の代表者と目された。76年芸術院会員。

「遁走」「舌出し天使」「海辺の光景」「花祭」などの作品多数。

コンサイス 日本人名事典より抜粋)

 2001年「鏡川」で大仏次郎賞受賞

「お礼とお詫びと」 青南小創立70年誌より 

私が、東京市立青南小学校にかよったのは、昭和6年6月から昭和8年3月までで、学年でいえば5年の1学期の中ばから6年を卒業するまでである。

 当時の校舎は木造で、古めかしい鏡が玄関から運動場に入ったあたりにぶら下がっていた。こんな小学校は東京は勿論、地方へ行っても珍らしく、

しかしその明治調の古めめかしさが、かえって逆に名門校らしいカンロクをおびていた。

 しかし率直にいって私は、この青南小学校へ入って、とくに最初の学年ばかりは非常にイヤな思いをした。優勝劣敗、適者生存の原則が、まことに原則通り

ムキ出しに子供であるわれわれに突きつけられたような毎日であった。のちに私は、かえってこのスパルタ式の受験勉強の学校が嫌いではなくなっていたが、

一方で私はこの間に大切なものを失ったようにも思うのである。

 勿論、受験勉強は青南小学校だけが行っていたわけではない。むしろ青南よりも他の小学校の方が、もっと不合理で効率の悪い受験勉強で子供を無益に

しごいていたといえるかもしれない。いずれにしろ、当時も、そしておそらく現在も、学校教育の努力目標は受験をおいて他にはないのが実情であろうから、、。

 いずれにしろ、いったん青南の教育方針になれてからは、私はむしろ気ラクに小学校生活を送ることができた。私は、6回も小学校をかわったのだが、青南では

他校の学生のように転校生をかばってくれもしなかった代り、転校生だからという理由でヨソ者のひけめを感じる必要もなかった。なにしろクラスの大半は、

他校からの転校生でしめられており、私もそうだったように転校してくると、その生徒は一度にドン底まで落ちる。そして、そのうち次第に成績が上がってくるので

ある。いまになって思うのに、こんな転校生ばかりの多い学校を受け持つ先生のご苦労は、どんなに大変だったろうか、ということだ。勿論、先生方にはそれなりに

大きな誇りも持っておられたであろうが、私のように田舎の小学校からやってきて、青山墓地へ逃げ込んでズル休みばかりしているような子供を、何とか引っ張って

行くだけで、そのご苦心のほどは想像にあまりある。 ー神宮司先生はじめ、当時の先生方に、紙上をかりてお礼とお詫び申し上げる次第である。