斉藤 茂太(1916〜 )


精神科医、随筆家 斉藤病院(府中)理事長

斉藤 茂吉の長男として、青山脳病院に生まれる。北 杜夫の兄

ユーモアのある、文体で「ヒコ−キ談義」「茂吉の体臭」「精神科の待合室」「モタさんの快老物語」など著書多数あり。

(東京の名家 石村博子著 角川oneテーマ21より抜粋)

          

「青南」   青南小創立70周年記念誌より

 私が生まれ、そして育った青山脳病院は「青南」の始業のカネがなってから駆けつけても間に合う位の距離にあったが、私の通っていた当時の「青南」は

二階建ての木造、土の上に砂利をしいた校庭をぐるりと校舎がとり巻いていて、運動会のたびに、生徒がその砂利を手で桜の木の下に片づけ、終わるとまたそれを

まいたものだった。その原始的な校庭も殆どが卒業(昭和3年)する間際に鋪装されて埃が立たなくなった。講堂を兼ねた雨天体操場も床がなくて泥がむきだし

だった。

 その後、間もなく木造校舎をとりこわされ、コンクリートの三階建てが建った。その建築の間は、ウチの病院の隣の空地に僻校舎が建って、毎日ワアワアという

子供達の喚声と、時々とびこむボールに、父は勉強が妨げられると怒った。父の書斎の窓が丁度その空地に向いて開いていたからだ。その空地は俗に「モトの原」と

呼ばれていたが、正式には「本尾の原」で本尾男爵家の持ち物であることを知ったのは遥か後のことである。

 青南の先輩、そして精神科の先輩、島崎敏樹先生は亡くなられたが、ひょんな所でひょんな人の口から「青南」の名をきくのはこの頃堪え難く嬉しい感じだ。

つい先日も画家の松任国子さんの自宅に、たまたま来日したベルギーの観光大臣ホローさん夫妻と招かれたとき、妹さんの、やはり画家の千鶴さんから「青南」生

と言われて、いっぺんに「よそ行き」がとれてしまった。それ迄は「他人」だったのにこれはいったいどういうわけだろう。フシギなことである。

※青山脳病院は、学校から1本青山墓地寄りの場所にあり大変近かった。当時王子製紙社宅とテニスコートだった一帯。

             

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