青山の戦災と終戦

青山は戦災で98%の被害を受けた。戦前と戦後とで町は大きく変わり、戦災を受け多くの人が青山を離れた。

昭和20年 2月9日 青山南町6丁目焼失家屋発生
2月17日 青山3丁目に軽傷者1名
2月19日 青山南町6丁目に爆弾1個落下し全壊家屋5戸、半壊6戸、死者2名、重軽傷者3名、

羅災者50名

2月25日 権田原町、青山南1、2、5、6丁目に爆弾や焼夷弾が落下 死者2名軽傷2名、

半焼家屋47、羅災者220名

3月9日 夜間大空襲で、10日未明までB29、150機が2時間半に渡って来襲東京の4割を

灰燼に化し、約10万人の死傷者を出した。太平洋戦争における東京大空襲最大の被害

赤坂区は傷者6名

4月13日 青山北町、新坂町(赤坂8丁目、乃木神社周辺)で、24戸焼失
5月24日 青山南町5丁目、北町6丁目、桧町(元防衛庁周辺)、新坂町、青山南町1丁目が被爆

この時、芝、麻布、赤坂の3区で全焼した戸数4182戸、羅災者15064名、

重軽傷23名、死者15名

5月25日

B29の大空襲 赤坂区役所をはじめ赤坂区98%に被害が及んだ。

赤坂区死者552名、重傷104名、軽傷1013名、全焼10111戸の被害を

受けた。

                            港区の文化財第12集 赤坂 青山その2より


東京大空襲 −その背景−

3月9日の大空襲は、皇居の東部および北東部に対して行われ、大きな鉄道の駅、石油、機械、織物工場そして何千もの

小さな会社や家々を狙ったものだった。人口過密地帯であり被害は酸鼻を極めた。

5月になると九州の各特攻隊基地が、再三の爆撃で息の根が止められ、約1000機からなるマリアナ基地のB29は、

完全に日本の制空権を獲得し、本土爆撃は思うがままの状態になった。B29の攻撃は全土に向けて昼夜をたがわず行わ

れるようになって各地に重い傷あとを残した。

5月24日未明、B29 250機(米国発表525機)都内西部に侵入 大森、品川、目黒、渋谷、世田谷、杉並の

各区で大火災発生。投下焼夷弾3600トン、死者762名、負傷者、4130名 

翌25日深夜B29 250機(米国発表470機)が残存地区に向けて、油脂、黄リン、エレクトロンの各種高性能

焼夷弾3200トンを一挙に投下した。3月10日の下町大空襲の2倍であった。被害は山の手を中心として全都に

および死者2258名、負傷者8465名に達した。

その後も、5月29日にも大森、蒲田、品川、芝、牛込に相当な被害が出た。立川、八王子、伊豆七島にも大きな爆撃が

くり返された。

計130回にもおよぶ、米軍機のもたらした被害は、死者11万5千人以上、負傷者約15万人以上、損傷家屋85万戸、

羅災者約310万人と推定できる。開戦時の昭和16年12月時で735万人だった東京の人口は敗戦時に347万人に

なった。空襲、戦災、それにともなう建物取り壊しなどにより住宅は56%が消滅し、人口は400万人も減少した。

                          写真版 東京大空襲の記録 早乙女勝元編著 新潮文庫より


終戦時の学校と青山の様子

昭和20年4月になると、ハンマー、スコップを持った在郷軍人からなる「特訓隊」が青南小に宿泊し、屋上に対空監視

哨を設置した。警備隊としての任務を持ち、主として強制疎開の住宅破壊作業、防空ごう作りを本職とした。毎日彼等に

よって、破壊される住宅の荷物が講堂に運搬され、講堂の中は疎開の荷物で山積みになった。

5月25日午後9時、闇夜は昼間と変わらぬ明るさとなった。9時20分頃、校庭に焼夷弾が80発投下された。不発弾

が多かったのだが、講堂に隣接する民家から出火し講堂の疎開荷物に類焼。(その後7日間燃え続け鉄骨がゆがんだ。)

宿直の沖田教諭、小林さんは重要書類を守り、教室の消火に努めた。多数の特訓隊は、さっさと避難し何の役にもたた

ない。夜が明けてみるとわずかに9教室が焼け残っていた。(東側3教室、2階の6教室)

大通りは、熱風が音をたてて通って行き、そのたびに人がバタバタ倒れ命を失ってゆく。青山通りや表参道に逃げた

人は皆死んだ。赤坂警察に逃げた人も逃げ場を失って死んだ。立山墓地、青山墓地、青山脳病院の原っぱに逃げた人が、

かろうじて助かったのである。現在の外苑西通りに面した谷間の町は焼け残った。火の勢いがあまりにもすさまじかった

ため、谷の上を通り過ぎて行ったのだという。

青山通りには、死体の山が築かれた。死体処理には男手が総動員され、作業は酸鼻を極めた。死体は、善光寺、青山墓地

に埋葬された。(3月10日の日本橋、神田、京橋方面の空襲犠牲者も青山墓地に埋葬されている)

青山は焼け野原になった。国会議事堂まですっかり見渡せたそうである。8月、終戦。9月には新学期を迎え学校が再開

された。出席者は24名であった。終戦の翌春、焼跡で卒業式が行われた。6年前に入学した時は66名だった1組の卒業生

は、被災や疎開で27名になっていた。                      

青南小33回生「歓歴」    青南小創立70周年記念誌    東京大空襲の記録より


戦後

焼野原の中に堂々と青南小の校舎だけがそびえ立っている。食べるものも、着る物もない中ではあったが、何かしなければ

という衝動にかられ、卒業生達は動きだした。同窓会を開き、音楽の出し物、映画上映などを行い入場料を徴集した。会場

は同窓生でいっぱいになり、学校の窓にガラスを入れる資金を寄付する事ができた。こうした働きかけは3年間にわたって

続けられた。(青南33回生「歓歴」より)

当局は、焼けたままの教室を、一時他の団体に貸し、その力で修復させる方法を考えた。

赤坂授産所に4教室と講堂、職員室。衛生工学会に6教室。昭和22年には学校制度が変わり校歌も改定され、日本中何も

ない所からの再出発となる。