戦時中の学校
昭和に入ると、日本は益々軍事色を強めていった。戦前の学校誌「青南学報」からも、その傾向が強く読み取れる。
うんざりする記述が続くが、当時の気分を読み取るために敢えて書き連ねた。
(昭和4年〜9年まで 青南小70年史、10年〜17年は、歓歴年表より)
昭和4年 | 国体の精華発揚を教育の根本理念として強調する、政府の発表した教化総動員運動に即応して、
儀式の厳粛、宮城拝礼、国旗尊重、消費節約に重点をおき、国民精神の作興に精進した。 |
昭和5年 | 児童中心主義を協調し、帝教公民教育の徹底を標榜 |
昭和6年 | 建国精神の名徴、批判的態度の養成、殉教精神の発揮を強調する。 |
昭和7年 | 満州事変に触発され愛国精神を高揚させる。 |
昭和8年 | 「皇国の発展の為、挙国一致協力、至誠奉公一路時艱匡救に邁進」すべく、児童教養に関する方針
を掲げ、皇国崇拝、自発性勤労愛好、質実剛健、犠牲奉公 の念涵養教育網領とした。 |
昭和9年 | 表紙は神宮の森、巻頭言に「勤労の幸福」が力強く表現されている。学校には日章旗が、
高々とひるがえっている。 |
昭和10年 | 文部省全国学校に国体明徴を訓令 |
昭和11年 | 2.26事件、学校の校庭側に御幸通り完成(天皇が神宮に参拝のおり通る道として) |
昭和12年 | 文化勲章制定 国民心身鍛練の通達によりラジオ体操開始 |
昭和13年 | 国家総動員法公布燈火管制規則公布 第5代対馬校長、東京府青年指導員養生館勤務を命ぜられる。 |
昭和14年 | 大学の軍事教練必須科目に。「青少年学徒に賜ハリタル勅語」下賜 |
昭和15年 | ドレミ階名唱法をハニホヘトに。外苑でヒトラーユーゲント歓迎会
6大都市でマッチ、砂糖が切符制に。 紀元二千六百年式典 |
昭和16年 | 国民学校令公布 青南国民学校に校名変更 米穀配給通帳制実施 国民徴用令強化 大平洋戦争
勃発。 12月8日 朝礼で竹村校長より開戦が告げられ、国民一丸となって敵に打ち勝とう、 という訓話があった。子供達は気持ちを高揚させ君が代を歌い必勝を誓った。 やがて朝礼のたびに「海ゆかば」がかかり、戦死者のために黙とうをささげる。 登校前に明治神宮参拝、内苑を清掃。 勤労奉仕、人手不足を補うために青山電話局や、高幡不動の農家に手伝いに行く。 「ほしがりません。勝つまでは」の記録映画に青南生徒達出演。一億一心、 子供もがんばっています、というシーンで御幸通りを、体操服にはちまき姿で駆け抜ける。 山本元帥の葬儀に参列し、追悼作文を書き、NHKで放送される。 |
昭和19年 |
夏からは、学童疎開がはじまる。クラスごとに先生の引率を受けて移動した。青南小は都下神代 (現在の京王線つつじヶ丘)であったので地理的に近く、家に帰ってしまう子供もいた。お寺、 別荘、学寮に分散して宿泊。この生活は20年12月まで続いた。
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毎週月曜日:休館
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