岡本太郎(1911〜96)

洋画家 


父:岡本一平 (大正、昭和期の漫画家、政治漫画で一時期を画した。)

母:岡本かの子(歌人「かろきねたみ」小説家 「老妓抄」「河明り」「生々流転」)

の、長男として生まれ、東京美術学校、ソルボンヌを経てアヴァンギャルド芸術、対極主義を主張し「夜明け」「重工業」

などの問題作を次々に発表。東京都庁の壁画や、彫刻などの制作も多い。

1967年の日本万国博覧会のテーマ展示プロデュ−サ−「太陽の塔」で、有名。また、多くの優れた著書がある。

わかりやすく、語りかけるように書かれており強い個性と共に真摯な人柄が伝わってくる。

南青山5丁目:学校の近くに住んでおり1年生の1学期だけ青南小に通った。その経緯は以下参照

「ぼくが小学1年生を四つも学校を変え、転々としたのは、当時の先生、教育制度、その周辺の条件に抵抗した結果である。 だいたい、ぼくの家では父も母も、息子であるぼくを人間同士として、まったく対等に扱った。甘やかしたり、こまごま面倒見てくれなかったかわりに、親だからと押しつけるようなことは一切しなかった。そういうなかで純粋に、自由に育ったぼくは小学校に入ったとたんに、絶望的に社会の壁にぶつかった。 今でもよく覚えている。はじめ、家のすぐ近く、青山の青南小学校に入学した。胸をはずませて、1年生の勉強に取り組んだのだが。」

「自分の中に毒を持て」岡本太郎著 より抜粋

ある日先生が「漢字で数字が書ける人」とたずねた際、インテリ家庭に育った太郎少年は、元気よく手をあげ、力いっぱい黒板に書いたら、四の字の書き順がちがうと、先生が頭ごなしにいばりくさったそうで、ちっとも親切にこう書くんだよ、と教えて下さらなかった。太郎少年は、そんな先生の人間性が信用出来なくなり、学校に行くのが いやでいやでのろのろ歩いて学校のそばの道ばたのどぶをのぞき込んでいたりしていた。そのうち、近所のおばさんに声をかけられて、いやいや学校に着くともう授業がはじまっていて、先生に立たされる。そんなこんなで、とうとう1学期で青南小はやめてしまったそうだ。そんなことの繰り返しで、あちこちの学校を転々としたようだ。小さい頃から「出る釘は、たたかれる」と噛み締めながら。

「岡本太郎研究所」だったところが、現在「岡本太郎記念館」となっている。

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