出羽ヶ嶽 文治郎 (1904〜1950)

斉藤文治郎:最高位関脇


山形県生まれの怪童で、13歳で身長2メートル、体重113キロ

青山脳病院創立者ドクトルメジチーネ斉藤紀一が養子にし、青南小5年生に編入させた。

机、椅子が小さすぎて何度も踏みつぶしてしまうので、教卓程ある特製の古い机と椅子をもらい一人でゆうゆうと

座って勉強していた。大変大きな人で先生7人を向こうにまわして綱引きをして楽勝してしまったり、体育の時間には、

校庭の周りに近所の子守り等が見物に集まってきたりと注目を浴びた。本人は医師になりたいと、

青山学院中等部に進学したが、この巨体では患者が不安がると、本人が嫌がるにも拘わらず、出羽ノ海部屋に

入門させられる。大正8年1月初土俵16歳。「文ちゃん」と親しまれ、巨人が小さな他の力士

に負けるので大いに話題になった。大正14年1月入幕、23歳。マスコミは「文ちゃん時代」と名付け、

巨人全盛時代を作る。大正15年1月関脇に昇進。身長204センチ 体重203キロ、この時が生涯の絶頂期であった。

この後、大関太刀光と対戦中、腰骨に負傷を負わせ再起不能にさせた。巨体による偶然の鯖折りが、

相手に致命的な負傷をおわせたのだが、小心な彼は、不安と迷いにさいなやまされ負け越し、心身共に傷付いてゆく。

やがて相撲協会は鯖折りを禁じ手とする。相手が皆小さい文治郎にすれば自然に上から抱え込む形になり、

それは鯖折りの形になってしまうため、まともに相撲が取れなくなってしまう。

養父の紀一の死後でもあり、相撲以外で食べていけない文治郎は、ぼろぼろになりながらも相撲を続け、

昭和14年5月幕下西9枚目で引退。年寄り「田子の浦」を襲名。戦後、昭和25年6月9日脳出血のため死亡。

(青南60周年記念号、歓歴より)

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