学校給食の歴史と背景
明治22年
山形県鶴岡町の忠愛小学校(各宗寺院住職によって設立された私立小学校)にて、おにぎり、塩干し魚、菜漬けを供したとされるのが現時点では最古の記録。
(給食発祥の地の石碑が建っているそうだ。)
これ以降、岩手、広島、岡山、静岡などでも実施。当時は欠食児童の救済の意味合いが強かった。
昭和に入ると
栄養面を配慮した給食が実施され始める。
昭和4年
204校、2万人の児童が給食を食べていた。
昭和20年
第2次大戦後の深刻な食料不足に悩み、貧しさに喘ぐ子供達の救済のため占領軍総司令部(GHQ)は救済の道を探る。
アメリカ民間団体ララから救援物資の申し出がありこの、ララ物資が学校給食用に使われた。
昭和21年
都市部の自動300万人に対して試験的に学校給食が施された。(脱脂粉乳登場)
その後アメリカからガリオア資金(占領地域救済政府資金)やユニセフ等の支援のもと大量の脱脂粉乳が輸入される。
当初GHQは援助物資として主食の小麦粉を考えていた。
しかし援助開始前に日本の有識者の意見を聞いた。「空腹をしのぐより子供達の真の体位向上が望ましい。」との東北大学名誉教授近藤正二博士の意見により、
「全国の児童は鼻をつまんであの脱脂粉乳を飲み下す」事となった。
脱脂粉乳とは、生乳から乳脂肪分を除去して粉末状にしたもの。つまりバターを作った残りかすながら、すばらしく栄養価の高いものであり、
現在でも家畜のえさや、パンの中に練り込んだり、缶コーヒーに入れられたりして活用されている。
(ただし現在は製造技術が進歩しており、あの味の脱脂粉乳を飲む事は不可能になった。)
昭和25年5月
文部省管理局に学校給課設置。アメリカから寄贈された小麦粉を用いて全国8大都市の小学校児童を対象に給食スタート。
アメリカでは当時国内穀物類の余剰が問題となって居り、余剰農作物の利用が検討されていた。
狙いは日本の子供達をパン食に慣れさせ小麦や飼料穀物の潜在需要を喚起する事。狙い通りパン食は定着しアメリカ小麦の輸入量も増加。
しかも戦争に負けたトラウマからか「米食は頭が悪くなる」との極論まで横行。主食がパン、ミルク(脱脂粉乳)が副食というスタイルが定着。
昭和29年
学校給食法成立
昭和33年
文部省が新学習要領を告示。学校給食は教育の一環として組み込まれる。
昭和51年
米飯導入。6年間実験校に米飯を導入して検討した結果正式に導入。主食がパンでは取り入れにくかった大豆、魚、海草類、キノコ、緑黄色野菜が使いやすくなり
メニューも豊富になった。当初週1回程度だったが現在は週3日程度導入されている。(どんなに米不足の時でも国産米にこだわっている)
給食のおばさんは大変だった!
昔は設備が整っていなかったので、野菜の皮むきは前日の夜遅くなる事もあった。
脱脂粉乳は焦げ付きやすいのでベテランが低温でゆっくりかきまぜる手間のかかる作業だった。
昔はお鍋1つで出来る料理が中心だった。巨大なお釜をオールの様な木べらでかき回すのは重労働で手が上がらなくなった。
昭和40年代、栄養師さんの勉強会は勤務時間内には出来なかったが、決められた予算、設備の中で決められた栄養量を確保しつつ子供が喜ぶ
美味しいメニューを求めて、夜や週末に自主的に勉強会を開いていた。
参考資料:なつかしの給食 1997年 アスペクト編集部
なつかしの給食 献立表 1998年 アスペクト編集部
青南小と給食
教育熱心な父兄の集まる青南小は伝統的に設備に恵まれていた。戦災でひどい被害を受けたが、児童の生育に欠かせない給食の復興は最優先事項でもあった。
麻布小でも給食優良校の表彰を受けて転任していらした桜井校長先生は、青南でも熱心に取り組まれ私たちが2年生の秋、給食優良校として表彰を受けた。
3年生までは、学校独自のメニューが作られ給食費も他校より高かったが(公立であったが給食費が払えない家庭がないというのは、
他校から転任していらした先生方の驚きであったそうだ。)高学年になる頃に港区の小学校は、一律同メニューと決められ生徒も父兄もがっかりした。
ここに「戦後」の終焉を見る事ができるのではないだろうか。