紅谷のルーツを探る

江戸時代(寛政頃:1789〜1800)

菓子杜司 紅谷志津摩:べにやしづまが、江戸日本橋通1丁目字(あざな)式部小路に菓子屋を開く。(現在の日本橋高島屋

あたり)志津摩は、将軍家御用の菓子屋、大久保主水の菓子杜司であり、寒天を使った練りようかんを考案した。

(それまでは、蒸しようかんのみ。)看板もあげないような小さな店であったが、茶人、富家のみへの商いをし、

人々は珍しがりもてはやした。手作りで少ししか作らないため「使いの人が重箱空しく帰ることたびたびなり。これ余が

目前したるところなり」と、鈴木牧之が書き残している。(「北越雪譜」1842年より)

同様の記述は、1830年の「喜遊笑覧」にも見られる。

 太田南畝の「一話一言」文化9年(1812年)の中の

「本町紅谷志津摩家菓子譜」には、100種類の蒸し菓子、72種類のお干菓子、16種類の

 羊羹が価格と共に記載されている。前日迄に被仰付候はば出来仕候とある。

大久保主水は、三河以来の徳川家の家来で、江戸の上水の計画を任されたり、砂糖が国産化された時、その割り当てを任さ

れる等、ただの菓子司ではなかった。また、15代を通じて江戸城の菓子司を勤めたのは大久保家だけであり、常に筆頭の

立場であった。大久保家は、将軍、大奥にお菓子を納めたが、一般には売らず明治維新をもって廃業した。

小石川安藤坂紅谷は嘉永年間の創業。

江戸城にお菓子を納めていた「大久保主水」の菓子杜司であった紅谷志津摩の流れを汲む店であると推察できる。志津摩は、

貴人、茶人のみを相手に商いをした。

志津摩の流れを汲む誰かが、お菓子を作り続けたと考えられる。青山紅谷創業にあたり本家から分けられた客筋から並みの

お菓子屋さんでないことは明白。安藤坂紅谷本店の顧客の層が大変なものであった事が推察される。徳川慶喜が亡くなった

地は、安藤坂のすぐ西に位置し安藤坂の入り口にある伝通院は、将軍家夫人達の墓所である。明治期の小石川に有名菓子店が

店を構えた必然性は不明だが、伝通院の存在は理由として考えられる。

(最後の将軍慶喜は、明治期の30年間程を静岡で生活していた事実もありまだ謎は多い)

志津摩の資料と、安藤坂紅谷創業の嘉永年間までに10年程の空白があり、この2者を結びつける資料はまだ見つからない。

安藤坂紅谷本店(西岡家)は戦後すぐに廃業しており、安藤坂に現在痕跡は残されていない。青山紅谷は、ここの番頭格の

青木氏が独立創業。

神楽坂紅谷

安藤坂の妹と結婚した小川茂七が創業。小川は風月堂で修行経験を持ち、海外でも菓子の製法を学び山の手の代表的菓子店と

して多くの後進を育て上げた。(銀座コロンバン、自由が丘モンブラン六本木クローバー、和泉屋、宮内庁大膳寮洋菓子担当

等多数)風月堂と技術提携をし、名店として多くの人々に愛された。こちらも、戦後まもなく廃業。

現在も日本中に数十軒の紅谷が存在するが、安藤坂の系列は和菓子のみ、神楽坂の系列は和洋両方を扱っている。

文豪と紅谷

泉 鏡花が、尾崎紅葉の玄関番をしていたとき、大福餅を10銭だけ買って来るように言われ、大道の露天から買って来た。

当時の鏡花は、紅谷の上等な大福餅の事だと知らずに前を通り過ぎた。紅葉は、露天の大福は口にせずそのまま鏡花に与えた

そうである。(紅葉の家は横寺町にあり神楽坂の目と鼻の先であった。)

紅谷の娘

紅谷の娘達は、美人揃いな事で知られていた。(息子に跡取りさせると、道楽をし、店を潰すので娘と優秀な職人を結婚

させるのが商家の習わしであった。)

昭和4年 神楽坂紅谷の娘を題材に「紅谷の娘」という歌謡曲が大ヒット。同名の映画主題歌。

わらべ歌調で、子供にも家庭にも歓迎され歌われた。

詞:野口雨情 曲:中山晋平 歌:佐藤千夜子

1、紅谷の娘の言う事にゃ サノ いうことにゃ 

 春のお月様 薄曇り ト サイサイ 薄くもり  

            (以下4番まで)