和菓子のお店 紅谷(べにや)

東京都港区北青山3−12−12


創業大正12年11月18日(2003年11月18日で、満80周年)

初代は、小石川 安藤坂の紅谷本店(小石川水道町17番地:現在文京区立三中付近)で修行。

青山に支店を作ることになり、安藤坂で番頭格であった、初代青木氏が開店前日に指名を受け青山に移り住んだ。

(その際、数名の使用人、顧客も一緒に譲り受ける。)写真左は、戦後すぐの看板。両端を1尺4寸程カットして、

現在はお店の中に飾られている。


戦前の顧客

三条家、松平家、鷹司家等には、毎日お菓子を納めていた。見本箱(中を桝方に仕切った塗をほどこした木箱)にお菓子を

並べて御用聞きをし、指定の数を届けるというのが住宅地での商いだった。御用聞きのまわらない家はお店に買いに来る。

お節句等には朝から行列ができる大盛況で、使用人を何十人も雇って、大変な賑わいだったそうだ。三世代家族が多かった

ころは、お屋敷も多かったので購入するお菓子の量も10個単位で2箱、3箱〜だった。


創立記念日のお菓子作りをはじめた時期は、かなり古くからのようで、初めは紅白の落雁だったのが、もう落雁を喜ぶ

人もいないからと紅白まんじゅうに換えたそうだ。これが私達が高学年のころ。麦まんじゅうといって、小麦100%の

皮にあずきのあんを入れたものだった。学校のお菓子を作る時は、前日から徹夜の作業で、作ったお菓子を箱に入れて

包装するまでが、寒い時期でとても大変だったそうだ。昔は1500名の児童がいたので、3000個のおまんじゅうを

作り、学校のマークを付け、お祝のおのしを付けて包装するので徹夜仕事だった。現在お店に麦まんじゅうはなく

山芋を使い皮をしっとりさせた「じょうよ饅頭」が売られている。当時は実践女子のお菓子も手掛けていた。

どんなに大変でも学校のお菓子は作り続けたかったが、ついに廃止になった。

紅谷の和菓子 創業当時と同じ製品は? 

栗蒸し羊羹は、作り方、大きさともに創業当時のまま。

まめ大福も伝統のお味で、全国に何軒かある紅谷さんでは

「名物」としている所が多い。



戦争中は、近くに青山警察があったために強制疎開の対象になった。延焼を防ぐために周囲の建物を壊し、あらかじめ

空き地を作っておくためである。少し外苑前寄りに蒲鉾屋さんがあり、そちらに移り、お菓子が作れなくなったので荷車を

利用して疎開荷物を新宿駅へ運んだりして働いた。また、お風呂を湧かそうとすると「紅谷さんの煙突から煙りがでている」

と和菓子を求めて行列ができてしまう時代でもあった。

5月25日の山の手大空襲で戦災に遭い青山墓地に非難後、玉川の親戚宅に身を寄せていたところ、青山の畳屋の

おじいさんが「紅谷さん、青山に戻ってらっしゃい」と、焼け残った家を借りる手配をしてお迎えに来てくれたそうだ。

その後、紅谷の裏にある清水湯倉庫跡にバラックを建て、畑を耕し、じゃがいも、かぼちゃ、さつま芋などを自給自足。

元のお店の場所に1坪半のお店、2畳と6畳の住宅を建ててお店再開。

オリンピック開催のための青山通り拡張で、お店は後ろに下がった。

昭和58年、初代没。昭和59年現在のビルが完成。

今日に至る。2代目夫人(青南36回生)3代目は、4組青木君(青南64回生)4代目が在学中。


青南と紅谷

歴代の青南の先生方で構成される「青南会」が年1回、青山会館(フロラシオン青山)で開かれるそうでその際には、

必ず、紅谷さんのお菓子を召し上がる。

33回生は、青山で毎年同窓会を開いているが、お土産は紅谷さんのおまんじゅう。

今でも青南を懐かしく思い、青山を訪れる人と切ってもきれないお店である。


紅谷本店を追い求めて。

小石川安藤坂の紅谷本店は、嘉永年間(1850年頃)に創業。現在廃業。安藤坂は、伝通院前から大曲へ下る南傾斜の

坂で歌人中島歌子*1が歌塾「萩の舎」を開いていた場所でもある。嘉永年間には坂の西側に「安藤飛騨守」の屋敷が

あった。現在は、マンション、区立中学、保健所、会社が並び深閑とした雰囲気で、昔の様子を伺えるようなお店は1軒も

なかった。廃業は戦後間もなく。戦前迄は、現在の区立三中辺り(水道町17番地)戦後は、安藤坂を登りきった坂の

左手の角にあったようだ。

*1 中島歌子 1841〜1903(天保12年〜明治36年)明治時代の歌人。

水戸藩士と結婚。夫が天狗党に加わり戦死し歌子も投獄される。その後、加藤千浪に師事して歌道を修め 

萩の舎(はぎのや)を開いて千人余の婦人を指導した。歌集「萩のしづく」 門人には三宅花圃、樋口一葉がいる。