福地桜痴 1841〜1906(天保12年〜明治39年)

長崎出身 医師福地苟庵の子 15歳から蘭学を学び、17歳から江戸に出て英学を学び幕府に出仕して通訳、翻訳に携わる。

20歳、25歳の時に渡欧、その折に新聞、シェークスピアに熱中。明治政府に仕えた後、太政官記事御用の「東京日日新聞」の主筆となる。

その後、政治の道に入り立憲帝政党を組織東京府会議長東京証券取引所肝煎。その後演劇に興味を持ち、歌舞伎改良を提唱し歌舞伎座を設立し、

脚本も多く手掛ける。(歌舞伎「春日の局」「侠客春雨傘」 長唄「鏡獅子」明治26年など) 晩年衆議院議員になる。  

(コンサイス日本人名事典三省堂より)

* 紅谷本店の看板は福地桜痴の手によるものであり、紅谷では暖簾分けはせず看板分けを行った。

* 福地桜痴は、能筆家として知られていたらしく明治6年発行のアメリカ、ドイツで印刷された国立銀行紙幣(注1)に伊藤博文から依頼されて

「この紙幣持参の人には何時たりとも五円相渡し申すべく候也」という文字を書いている。

(注1)明治政府は、藩札に代わる通貨として太政官札を作ったが、稚拙な印刷技術だったため偽造が後を絶たず、明治3年伊藤博文は

   銀行紙幣発行の建議をなして、自ら渡米ニューヨークの手形印刷会社に各種紙幣1500万円の印刷を注文した。ドイツにも前後して

   1億円の紙幣を注文した。(十銭~二円までは形もデザインも一緒)五円札の表には農業立国ということで田植えと稲刈り、裏には

日本橋遠景が印刷されていた.

(戊辰物語:東京日日新聞社会部編:岩波新書、大蔵省印刷局記念館:お札と切手の博物館:図録より)

このお札の表に桜痴の文字が入っている。(下の写真の中央下段)