N File  7/27/03 更新


仮説:江戸幕府御用達筆頭のお菓子の味を引き継ぐのは「紅谷」なのではないか?


1:戦前の顧客が公家、大名家とは、ただ事ではない!

青山紅谷さんで、青南小の創立記念日のお菓子の事を伺おうと思ったら、初代が小石川安藤坂「紅谷本店」というお店で

修行なさった事を教えて下さった。また、戦前まで大変な顧客を持っていた事を知る。


2:紅谷本店を捜せ!

すぐさまNTTの番号案内に問い合わせるが、本郷にならあるというお話でそちらの番号を教えていただく。

即、行って見る。休業中だが立派な看板が残っている。紅谷の場合暖簾分けではなく「看板分け」が行われるのだそうだ。

東京大学の農学部すぐ前にあり、東京大空襲の爆撃を免れた地域なので看板が焼けずに残ったようである。

福地源一朗(桜痴)の書による大看板だ。この人は、明治時代のジャーナリストで議員にもなり、池之端(不忍池のほとり)に邸宅を構え、

晩年には歌舞伎の脚本等も手掛けた。森鴎外の「雁」で、学生の会話の中にも登場する。

本郷の紅谷さんにお電話して伺ってみる。あまり立ち入った事は伺えないし、古い事は御存じなく、ぽつりぽつりとお話下さる。

本店は、戦後すぐ廃業したとのこと。本郷は、本店の娘が分家して出来たお店との事。


3:身近なところから、地道な調査を!

残された路は2つ。青山を再度取材する事、インターネットを駆使する事。

インターネット検索は、わずかでも関連があると思われる物はプリントアウト。

その中で判った事。「紅谷には2系統ある。」

★ 安藤坂紅谷本店の和菓子系、

★ 神楽坂紅谷(安藤坂の妹婿が始めた)の和洋菓子の2本立て系


4:資料の多い神楽坂紅谷

風月堂のウエブサイトに、神楽坂紅谷を中心とする話が紹介されており、メールで詳細を問い合わせたところ詳しくお返事を頂く事ができた。

神楽坂にも足を運び聞き込みをする。助六という履物の老舗のおじいさんが粋な和装で当時の事を語ってくださる。

野口雨情が、履物を買いにきて「紅谷のむすめ」の詩を書いたいきさつを話して帰ったそうだ。生き字引のようにいろいろと話してくださったため、

場所の特定ができた。大久保通りとの交差点に近い「薬ヒグチ」の場所。

こちらも戦争前後に廃業。神楽坂のお店の方々によると、いまだに紅谷さんを懐かしんで「あのお菓子が食べたい」というお客さんの声が聞かれるそうだ。


3: 江戸時代との接点にたどりついた!

鹿児島のかるかんの明石屋のウエブサイトに「紅谷志津摩」の記述がありこの人物の追跡を開始する。

虎屋文庫編集の著書の中にも、いくつかの記述と出典を見つける事ができた。

江戸東京博物館、国会図書館、新宿区歴史博物館、文京ふるさと歴史館、味の素食の図書館、に足を運び関連資料を収集。


4:「推測したこと」を全国の紅谷にいいふらす。

具体的な事実が出て来たところで、日本中の紅谷屋さん約22軒に電話取材、紅谷のルーツが紅谷志津摩につながる

可能性をお話しながら、紅谷志津摩が江戸城の菓子司の大久保主水の弟子であり、大久保家が廃業した現在、江戸城の

お菓子の流れを汲む数少ない名店である可能性を御説明する。

現在、本流にもっとも近い存在は青山紅谷の3代目青木君であることも判った。


5:参考資料「タニとヤ」 ことばの歳時記:金田一春彦著より 

2月7日 

八百年前の寿永3年の2月7日は、源平両家の一の谷の合戦が行われた日だ。一の谷は、今の神戸須磨区の海に近い地であるが、

この一の谷に限らず京都の黒谷(くろだに)・鹿が谷(ししがたに)など、関西の地名では「谷」の字はすべて「タニ」と読む。

これに対して関東では、埼玉県の熊谷(くまがや)や深谷(ふかや)、神奈川県の保土ヶ谷(ほどがや)など、「ヤ」と読むのが一般的である。

その境界はどの辺かというと、太平洋方面は愛知・三重の県境、日本海方面では東にずれて新潟・富山の県境がそれで、

愛知県下では刈谷(かりや)・三谷(みや)のようにヤと読むが、富山県下では倶利伽羅谷(くりからだに)のようにタニと読む。

東京は関東の中央に位置するから当然、四谷・渋谷・世田谷でわかる様にヤが多いが、旧市内に限り鶯谷(うぐいすだに)・清水谷(しみずだに)

・茗荷谷(みょうがだに)のようにタニというのが折々まじる。これは江戸時代の人が京都の風にあこがれて名前を付けたのが起こりであろう。


今後解明が期待される謎:以下2件

(1)紅谷の屋号の由来

(2)何故小石川安藤坂に本店を構えたのか?