清水 功先生 ご訃報
2006年11月7日 膵臓がんのためご永眠
9月から食欲不振や体力低下をお感じになられていたようですが、いろいろ検査をして診断がついたのが10月半ば。
2週間のご入院だったそうです。亡くなる前々日には「治ったら温泉に行こう」とおっしゃるほどで
前日にも点滴をつけたまま廊下を歩いてらしたのですが、夜間に急変されbィ亡くなりになりました。
奥様は家を守るのがお好きな方で、外出や社交を好まず庭の手入れ、家の手入れ、お茶畑や畑の手入れ(奥様所有の農地が群馬に)で日々を過ごされています。
先生は大の社交家で、地域の役員、青南を始め赴任した学校の方々とは定期的に会合を続け、野球関係、書の関係、ラジオ体操の指導、
そこから発展した体操教室など、何十年も続けられて郷里の上田市の友人との交流も欠かさず、家に居るのは雨の日だけだったそうです。
書は、楷書5段、かな文字は4段 号は「冠人」
故郷上田市にある姥捨山(冠着山)を敬愛してつけられたそうです。
奥様は「よく身体を動かす人は、長患いしないというけれどその通りに亡くなってしまいました。
葬儀も、家でひっそり行いたかったけれど大勢お見えになって大きなお葬式になってしまいました。」と、お話下さいました。
享年78歳 墓所は八王子霊園
先生は、1965年に青南小学校に赴任され、私達が4年生になったとき、5組の担任になられました。そして、翌年、
青南を去られました。交通事情の悪い当時、大変な通勤地獄を経験されたそうです。
2002年9月21日(土)女性4人組が先生のお宅におじゃまして、おもてなしをいただきながら様々なお話を伺ってまいりました。
この下に、当日の写真をアップ!
生の厳しくもお優しいご薫陶を受け、ご自宅にお出入りして可愛がっていただいた。
池田先生は、怖いと評判であだ名は「ライオン先生」と呼ばれる。
そのライオン先生が、卒業間際に「君は師範学校に行って僕の跡継ぎになり給え。」
と、おっしゃられたので師範学校に進学。1年で新制大学になったため、
信州大学教育学部第1期生となる。卒後すぐ、長野県佐久の中学1年生をご担任され、
当時の生徒とは10歳程しか年齢が離れていないので、今も親しく交流を持たれている。
戦時下、15〜16歳のとき、東京陸軍少年飛行兵学校に入校され、1年間の操縦訓練を受けられた。
パイロットへの夢もお持ちになられたが、教職を選んで本当に良かったとお話し下さった。
左下:クラスサイト作成中の、ノートパソコンを覗き込む先生
右上:奥様にインタビュー
右下:最寄りのバス停までお見送り下さいました
先生は、教職を退かれる時3つの事を公言なさり、それをずっと守っていらっしゃるそうです。
(校長先生をなさっていた先生は、送別会のお席で以下の事を宣言しました。)
1、畑仕事 40坪ほどの畑を借りて、様々なお野菜、果物をお育てです。近所の公園の落ち葉を集めてたい肥も
作られています。また、群馬に狭山茶を植えた畑もお持ちで、お茶を、手もみで作っていらっしゃるのです。
研究熱心な先生は、ノートに詳細な記録を付けてよりよい畑運営に取り組んでいらっしゃいます。
2、書道 現在漢字五段、かな四段の腕前でいらっしゃいます。
3、野球 杉並の「ベストイヤーズ」という還暦野球チームでピッチャー兼コーチをなさっています。
このチームは28名程のメンバーの殆ど全員が、元校長先生という珍しいチームです。新聞取材を受けたときの
お写真を拝見しました。
ユニフォーム姿の先生をお見せしたいのですが、新聞社カメラマンが写した写真なので、ここでは御紹介できません。
ラジオ体操の御指導
近くの朝日が丘公園でラジオ体操の指導をなさっています。毎朝6時から、40〜50人の人達の前で体操指導をなさるの
ですから、地元ではかなりの有名人です。
行きづまった時ってどうしたらよいのでしょうか?
「一旦その場を離れる事じゃないかな。気持ちも、頭も切り離して、旅行でもいいから。
今やっていることから離れて別の事をする。白紙に戻す気持ち。
それから、信頼できる人に聞いてみる事、話してみる事。」
奥様とお話ししました。
奥様は草花を愛され、お庭やハーブのお手入れが素晴らしく丁度、彼岸花も咲いていました。とても慎ましい奥様
ですが、花や小鳥、先生の書の事、先生がお作りになる作物の事は、とても熱心にお話して下さいました。先生を
心から尊敬していらっしゃる事が強く伝わってまいりました。
「清水先生ってどんな方ですか?」 (先生は席を外されてしまいました。)
奥様は、にこにこしながら「学校が忙しかったですから。社交家ですね。みなさんとお話するのが好きです。
力仕事は、私がします。」とおっしゃっていました。
お玄関前の素晴らしい松の木、先生のお母さまが、信州からお持ちになった伸びやかな枝のすももの樹、そして
先生御夫妻のお見送りをいただき、すっかり童心に還った私達は、奥様手作りの「おはぎ」をお土産に幸せいっぱいで
家路についたのでした。
先生のお言葉より