私達の校舎 卒業アルバム「いぶき」より
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玄関ホール:後方に懐かしい靴箱が見える。
平面図 昭和11年(東京都公文書館蔵)
新築当時の図面だが、戦後も殆ど変わっていない。
給食室の辺りと後に講堂を建て替えた際の変更部分が異なっている。
校舎の歩んだ道
昭和11年4月 | 鉄筋3階建て1部4階 総面積4472平方メートル。 講堂、プール、すべて新しく新築された。総工費32万余円 |
昭和20年5月25日 | 東京大空襲により東側の3教室2階の6教室を残して焼失。講堂内には強制疎開のたたみや障子がぎっしり納められており
1週間燃え続けたため、鉄骨まで歪んでしまった。 |
昭和27年10月1日〜 | 校舎復興5カ年計画がたてられる。校旗樹立 校歌制定(戦前の歌詞ではそぐわない)給食室の整備、校庭舗装、放送室、図画室、
図書館の整備、校舎の修理工事 |
昭和31年11月 | 講堂改装 |
昭和36年4月1日〜 | 家庭科室、音楽室、図書室、理科室の改装 制帽制定 給食室の改修、増設、リフトの取り付け
プールにスタンド設置、浄化槽設置、窓枠取り替え 校舎塗装、全教室テレビ設置 |
昭和41年7月〜11月 | 校舎大改修:工事費4916万円 |
昭和42年3月 | 講堂完成 |
昭和44年9月12日 | 地下鉄千代田線工事のためプール取り壊し。 |
昭和45年7月1日 | 新プール完成、校庭着色塗装 |
昭和54年4月1日 | 新校舎建設のため、取り壊し |
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改修の様子 |
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新校舎外史(第33回生文集古稀燦々より抜粋)
青南小33回生の古稀記念誌「古稀燦讃」に、当時の資料に基づく興味深い記述が掲載された。
「改築落成記念誌 昭和11年9月」「改築後後援會収支決算報告書 昭和12年7月」が、あるお宅から発見され、
校地の拡張、校舎の改築に関して、父母達が一丸となって奔走した事実が記録されていたのである。
名声高い青南小には多数の児童が集まっていたが、東京市の学級数に対する校地面積の内規から隣接地買収は500坪
が限度であった。地主菊本直次郎氏は、全敷地581坪の買収を希望していたため、保護者および関係者は寄付を
つのり不足分壱萬参千七百圓を、區に寄付して菊本氏所有の校舎隣接地全部を購入できるよう申し出た。それが今の校地
である。その上、旧校舎の約半分が大正9年に増築されていたため新校舎建設は時期尚早であると、大蔵省からクレーム
がついた。大蔵省の有力者に東京市、赤坂區当局に父母達が毎日のように陳情に訪れ、ついに全面改築の許可にこぎつけ
る。昭和9年9月の関西方面風水害の影響で材料が値上がりし建築予算の追加が余儀なくされるハプニングもあった。
このような、当時の父母達の、大変な努力の結果私達が学んだ校舎が完成。
昭和11年6月17日の落成式で、後援会会長の根津嘉一郎氏は次のように述べている。
「教室で物を教えられるにも、いかほど教科書を上手に教えたか、いかほど教材を落ちなく授けたか、ということよりは、
児童をいかほど正しく解らせたかいかほど正しい事をするようにしたか、に終始御注意を願いたい。建築や設備は金さへ
あれば立派になりますが立派な校舎から正しい人が出るとはかぎりませぬ。」
改築後援会の寄付金総額は、3万8482円48銭。これにより、ピアノ、ミシン10台、理科標本、実験器具、高聲機
(校内放送設備) 太陽灯、体操用具、図書掛図類、16ミリ映写機ベル12号、神殿建設などがまかなわれた。